世の中にはお料理を作れる人なんて、人の数ほどいる。
私は職業にしているけど、料理人だってたくさんいる。
だけど、食材と向き合って。
食べる人の事を心から想って、心を込めてお料理している人ってどのくらいいるのかな。
想いをのせている人ってどのくらいいるのかな。
ふと、そんな事を考える。
私の、目の前のまな板にのっている人参さん。
種が植えられ、芽が出て、土の中で育ち、収穫されて、市場行って、お店に並ぶ。
たくさんの人の手を渡ってきたはず。
そのお店で、数ある人参の中から、選ばれてココまでやって来た。
それだけで、すごい奇跡的な出逢いで。
きんぴらになるのか、グリルされるのか、スープになるのか。
人参さんには、運命の時。
そうして調理されて、人の口に入り。
その人の命となる。
たくさんの食材は、そうやって集まって来て。
食材同士も奇跡的な出逢いをしている。
命の源たち。
菜食に限った事ではないけれど、
菜食の人たちは、想いがあって「あえて」この食事をしている分。
想いをのせやすいのではないかと思ってる。
その想いって。
根底は「愛」だと思う。
だから、お料理は「愛」の固まり。
美味しいと、自然に口角が上がって、笑顔になって。
一瞬で幸せになる♡
食べた人も、作った人も。
幸せ。
いつも、本気でそう思ってる。
私。
*おはな*のコンセプトの
〜LOVE FLOW〜
は、まさにこのコトなんだよなー。
マクロビオティックのお料理教室オーガニックベースを主宰されている、
奥津典子さんがFacebookに投稿していた記事。
あまりにも共感できすぎちゃうので、以下引用させていただきます。
ちょっと長いけど、読んで欲しいな。
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マクロビオティックは、愛の料理だと思う。
言ってしまったよ、約20年にして。ああ、言っちゃった。
だけれどですね、
だってですね、
できるだけ、他の生き物も環境も、傷めずに
いろんな人やことのおかげで生きてる自分を大事にしよう
っていう料理が愛でなくてなんだろう。
食べてもらいたくてつくる料理が愛でなくてなんだろう。
マクロビオティックが嫌な家族や友達のためにだって、
押し付けたくない、無理強いしまいと
一生懸命お肉もできるだけ穏やかに料理してみたり
「もどき」って呼ばれる代替品を料理するのです。
でも・・・残念ながら、「いらない」「まずい」って言われたり、
「外食の方がいい」とかコンビニのお菓子やおむすびを喜ばれたりすることも、
特に最初は沢山あります。
時々泣きたくなること、あると思う。自分がもっと料理が上手だったらとか、うっかり自分を責めすぎてしまうこともあるだろう。だって相手を責めたくないから、そのエネルギーのやり場をつい、自分を傷つける方に向けますよね。いつだってエネルギーを効率よく頑張る方には使えるわけじゃないもの。
別にみんな全然暇じゃない。
お金だって余ってない。
まあ、そういう人もいるけれど、少数です。
たいていの人は
一生懸命やりくりして、仕事と育児を、ときに介護まで両立してご飯作りに頑張ってる。
それでも、食べてもらえないと・・・なんだかちょっと切ないよね。
気を使われても嫌だし。
仕事してない主婦?大変ですよPTAとかすぐ専業主婦がやるのが当然なムードになるんだから、気持ち切り替えるの逆に大変なことあるんだから
子供がいない人? 仕事と仕事の両立に大変そうだよ 目が回りそう、見てると。
一人暮らしの人は時間が余ってるだろうって? ・・・大変だと思う、たいていの女性は自分のためだけには頑張れないんじゃないかな。私はそうだな。家族のためだから、作れるけど、自分一人だったら菓子パンですましかねないよ、本当。一人で生きてくって相当エネルギーがいる。人間はみんな一人ですけどね、だけど家族がいるとやっぱり一緒感がありますよね。背負うものも増えるけど、それでがんばれるし。一人で明るく生きてる女性たちはだからかっこいいと思う。
みんなそれぞれの条件の中でマクロビオティックの扉を開く
チャレンジを続ける。
もちろん、誰も完璧にはできないよね。食べ過ぎなりなんなり、みんなそれぞれ課題を抱えながら、少しずつ歩んでく。
そりゃあ、お菓子作りもバターや卵を使った方が楽です。
だって、そういう風にレシピができてるんだもん。
でも、できるだけ使いたくないからって、じゃあ、アボガドを入れてコクをだそうかなとか、甘みと油を増やしたら乳製品なしでも満足してくれるかな・・・なんて工夫して。
ああでも、やっぱりアボガドも油も本当は使いすぎない方がいいんだった、これだったら普通にいいバターや卵を使った方がよほど体にもいいんじゃないか、美味しいんじゃないか、私のやったことは意味があるの?って悩むこともいっぱいありながら、みんな頑張ってる。
変な人って言われたりしながら。
体や気持ちも最初はどんどんよくなる。
けど
誰もがその後停滞期に入ります。
するとよくなったことは忘れてよくなってないとこばかり気になるんだな、人間て。自信が持てなかったり。
当然、何を食べても元気に見える人もいる。
肉も乳製品も砂糖も食べても優しく素敵な人も沢山いるしね。
自分は何やってるんだろうって情けなく思ったり。
周りにも、そんな変な食事してるからよって心配されたり。
面倒くさいことだって言いたくないよね。あれは体によくないんだとか、生産プロセスがこうでああでとか。
みんなが美味しそうに食べている物を、いい、って言いたいよ、誰だって。
親の思い出のご飯を否定するようで感謝が足りないようで辛くなったり。
でも。
それもこれも、
ごまかすことができない人たちの
自分と家族と他人の笑顔を、幸せを、そして世界の幸福を願わずにおれない人たちの
そんなの無理と頭で思ってもやっぱりあきらめきれない人たちの
美しい愛の格闘。
どんなに惨めに自分では思えても
それはやっぱりとても美しいと、いろんな人たちの、姿を、横顔を、涙を思い浮かべて思う。
その積み重ねは、数年後、やっぱり努力を続けた人だけの花としてちゃんと開く。
だんだん美味しいって楽しみにされるようになったり、家族や自分を守れたって実感は本当に嬉しいですしね。
台所から、命の革てなおしをしようとしている人たち。
土から革てなおそうとしてる人もいる。
どっちも素敵で、どっちも大事。
もちろん、他にも大切なお仕事は沢山あるけれど、
食と作物はみんな命と生き方の根幹で、みんなに関係あることだから楽しい。そしてだから大変。
世界は命。
空気も水も何もかも、生ある神聖なものとみなすことは世界中にあったのだから、その記憶は誰しもに眠っていると信じたい。